uedai blog

日々のこと、読書日記、徒然なるままに思うところ

コインロッカー・ベイビーズ

小説なんて読んでる場合じゃない!っていうご時世らしいですよ。
まあ関係なく読みましょう。楽しいので。

それにしてもあんた達いい色に焼けてるね、サーファーかい? 白いスーツできめてるところ見ると、サーフシティ・ベイビーズだね? 店員が金を数えながらそう聞く。ヘルメットの顎紐を締めて、いや違う、とキクは言った。
俺たちは、コインロッカー・ベイビーズだ。(下巻 p214)


というわけで、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読了した。
かなり面白かったので、構わず読んでしまいました。


あらすじ

生まれてすぐ、コインロッカーに詰め込まれたキクとハシ。九州の炭坑島で養子として育った二人だが、ハシは東京へ本当の母親を捜しに出て行ってしまう。キクはハシを追って東京に出る。そこで、アネモネに出会う。本当の母親を捜しに東京へ来た二人はどうなるのか?


いやー面白かったですよ。前半のねっとりした感じとか、えぐい描写とかで話にのめり込めなかったですが、気づいたらのめり込んでましたねw


面白かった点について、やはり村上龍らしいといえばそうなんですが、現代批判的な意味合いの社会性に富んだ物語が面白い。
もともと、当時起こったコインロッカー幼児置き去り事件を題材にとった小説ということらしいこともあるけれども、この二人の主人公を主軸に現代の若者を痛切に批判しているところが面白い。
コインロッカー・ベイビーズは現代の若者。現代の若者は、コインロッカー・ベイビーズのように、密閉されたコインロッカーで何も出来ない、何をしても無駄に終わってしまうという、無力感、そういったことで現代若者を表しているように感じた。

そうだ何一つ変わっていない、俺達がコインロッカーで叫び声をあげたときから何も変わってはいない、巨大なコインロッカー、中にプールと動物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺達は住んでる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺達を蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、壁は上手い具合に隠されている、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色のキリが一瞬切れて壁や監視塔を発見し起こったりおびえたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされてコトを起こすと、精神病院や刑務所と鉛の骨箱が待っている。(下巻 p129-130)

コインロッカーを定義づける文章。コインロッカーの中には何でもあり、不自由しない。しかし、少しでも自分の力で何かしようとすると妨害され、無駄に終わる。現代若者を表している言葉に他ならないと感じた。


そういった、何をしても無駄なコインロッカー・ベイビーズの生き残りとしてキクとハシは描かれている。
この二人の主人公は対照的だ。攻撃的なキク、内向的なハシ、運動ができるキク、歌が上手いハシ、刑務所に送られるキク、トップスターとして活躍するハシ、運命に抗うキク、運命を受け入れたハシ。
主人公の描写で面白いと感じたことは、全て±0であること。人を殺し、刑務所に入り、故郷では恥と呼ばれているが、常に自分を信じ道を切り開く、エネルギーを持ったキク。歌手として大成功するが、心が壊れ、精神が病んでしまったハシ。
結局どんなに成功しても、失敗しても±0。そんな風に感じる。


また、解説で書いてあるが、小説全体で表現している、キーワードとなる「心臓の音」と「ダチュラ」。両者はそれぞれ、「生きる」、「破壊」を表している。
前述したとおり、コインロッカー・ベイビーズには、何も出来ない。生まれたときから「死んでいる」のだ。恵まれた環境の中にあっても、自分の思うことは何も出来ない。
小説中に出てくる「心臓の音」は、キクとハシが病院で聞かされる音。記憶から除かれてはいるが、彼らはその音がなんなのか、最後まで探し続ける。母親を捜すように。
子供が生まれるときに最初に聞く音は、心臓の音だ。安心や平穏を表している。生を受けて初めて聞く音だ。彼らはそれを知らない。だからこそ、「生きる」ためにもその音を探す。
ダチュラ」は破壊を表す言葉だ。

何のために人間は道具を作り出してきたかわかるか? 石を積み上げてきたかわかるか? 壊すためだ、破壊の衝動がものを作らせる、壊すのは選ばれた奴だ、お前なんかそうだキク、権利がある、壊したくなったら呪文だ、ダチュラ、片っ端から人を殺したくなったら、ダチュラだ。(上巻 p103)

ものを作ることは破壊するため、破壊は選ばれた奴のみ、ものを作り、壊すことが出来るのは選ばれたものだけだ。
しかし、「ダチュラ」を服用したものは、「破壊」を行うだけ行い、記憶も意識もなくなってしまう。それは、死んだも同然だろう。


コインロッカー・ベイビーズは「生きる」ことを知らない、「心臓の音」を知らないからだ。だから、閉じられた世界から出られない、壁を壊せないからだ。だから、「ダチュラ」、破壊する力が必要なのだ。

だからあの音とが聞きたいんだ、どうしたら聞けるのか考えていたら、蝿が教えてくれた。一番愛してる者を殺さなきゃだめだって、愛する者を犠牲にして初めて、望みが叶うんだって(下巻 p128)


こうしてみると、なんでもかんでも破壊することがいいんですよーと思うかも知れないが、最後にしっかり良い方向付けをする。
最後に、キクはダチュラを使い東京を破壊する。彼らにとって東京は、あらがえないもの、コインロッカーの壁、そのものだ。13本の塔がそれを如実に表すものとして印象的だ。
ハシは、ニヴァを刺し殺しかけ、ダチュラによって破壊衝動にかられ妊婦を殺そうとする。今までの論理によれば、殺すこと、破壊することでハシは生きることができる。だが、ニヴァを刺したとき、聞こえていた音は消える。それは、間違ったものを壊すことを指摘するような描写だ。ここでいう破壊することで生きるということは、コインロッカーを破壊することで生きることなのだ。ニヴァも妊婦も、ハシにとってのコインロッカーではない。ハシはダチュラの破壊衝動と戦う、そこで心臓の音を聞くのだ。心臓の音、生きること、コインロッカーからの解放だ。
彼らは、自分たちを支配する、絶対的強者を破壊し、心臓の音を探し当てることで、コインロッカーから解放され、初めて生を受けるのだ。
物語は、キクとハシがコインロッカーから解放されるところで終わる。


いわゆる現代の若者として、無力な存在として、キクとハシの葛藤、屈服、反抗、逃走は身にしみて感じた。これから、何か悩んでいたり、言いようのない無力感を感じるときに、読むと何か感じ、変わるかもしれないですね。